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2015.6.26

日本の防疫・防災レジリエンスをつくった男‐後藤新平

韓国での中東呼吸器症候群(MERS)の感染拡大は収まる気配がないですね。対岸の火事ではなく,日本も十分な対策をとってほしいものです。

日本列島は四方を海で囲まれているので感染症の拡大も水際で防げるといった話は大昔の話で,今は飛行機で大量移動できる時代ですので,防疫面での日本の地政学的な利点は薄れていますからね。

明治初期の医師であり,のちに政治家でもある後藤新平は,防疫の重要性を強く感じ,その対策を誰よりも早く実行した人でした。

彼は,明治28年(1895年)の日清戦争時,帰還兵からの感染症が国内に拡大したときの危機的な状況を医師として十分に判断し,臨時陸軍検疫部事務官長として広島の似島検疫所で検疫業務に従事しています。まさに感染症を水際で防ごうとしていたのでしょう。後藤のことだから水際で防止するだけでなく,感染症が万一拡大したときのリスクマネジメントも考えていたかもしれません。

その検疫業務の行政手腕が,当時の臨時陸軍検疫部長の児玉源太郎の目に留まり,児玉が台湾総督に就任した際には,児玉は後藤を民政局長に抜擢しました。児玉と後藤の2人を中心にして,新渡戸稲造などの行政能力の高い優秀な日本人が集まり,台湾は統治されていました。このときも後藤は,仮に災害が発生したり,感染症が流行しても,都市機能が速やかに復興できるような計画に沿って統治していたようです。まさにレジリエンス的な都市づくり・組織づくりですね。

関東大震災後,後藤は帝都復興院総裁に就任し,極めて迅速に帝都復興計画を策定し,議会に大幅な復興予算を通し,東京を災害に強い都市に変革しています。後藤が生きていれば,東北大震災からの復興計画がなかなか進まない今の現状を嘆いているかもしれません。

台湾民政局長時代,ダーティーな噂もある後藤ですが,ネガティブな一面も人間なのであるのでしょう。

後藤が亡くなって80年近く経ちましたが,後藤が残した検疫レジリエンスの精神はいまだ日本に脈々と残っていると信じつつ,隣国のMERS感染拡大が収束することを願っています。

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